徒然なるまま

日々の記録

世の中にたえて桜のなかりせば

「世の中に たえて桜の なかりせば

 春の心は のどけからまし」

 

毎年桜の季節になると、この有名な和歌を思い出す。

私はこの歌がとても好きだ。

 

現代語訳すると

「もし世の中に全く桜というものがなかったなら、桜の花が咲くのを待ち望んだり、散っていくことを悲しんだりすることもなく、春の人の心はもっとのどかだろうに…。」

という意味らしい。

在原業平の詠んだ歌で、古今和歌集伊勢物語に収録されている。

 

私が初めてこの歌を知ったのは、高校1年生の頃。古文の授業だった。

教えてくれたのは、今は亡きおじいちゃん先生。

正確な季節は覚えていないけれど、桜の咲く時期でなかったことは覚えている。

 

私の通っていた高校は、校舎のすぐ横に桜の木が植えられていて、教室の窓から外を見ると視界いっぱいに桜の木が飛び込んでくるような配置だった。

桜の時期ではないので、当然咲いてはいなかったけれど。

おじいちゃん先生がこの歌と意味を教えてくれたとき、大げさな比喩ではなく、窓の外の木にぶわっと満開の桜が咲いたようなイメージが湧いた。

それくらい、この歌には人を共感させるパワーがあると思う。

 

日本人の多くは、毎年この季節になると今か今かと開花を待ち、いざ咲いたらいつまで散らないで楽しめるかなと気にかける。

千年以上も昔から同じことを繰り返してきたと考えると、もはやDNAに組み込まれた性なのではないかとすら感じる。

 

桜の素晴らしさを、写真や映像で伝えることはできる。

あるいは文章でも、長文で言葉を尽くして説明することはできるかもしれない。

でもそれをたったの31文字で表現し、千年以上先の人間をも共感させているのだから、すごい。

当然その千年の間にいろいろなことがあって、人々の価値観も大きく変わっているというのに。

 

ところで現代の日本人は、桜の季節に出会いと別れを経験している人が多いと思う。

学校の入学や卒業、クラス替え。

職場の入社や人事異動、定年退職。

(厳密には桜の時期から少しずれている場合も多いけれど…)

 

桜そのものの儚さに、出会いのそわそわや別れの寂しさが相まって、より切なさを感じるのではと思う。

ただ、この歌が詠まれた平安時代は状況が違うはず。

 

少し調べてみたところ、学校の学年については学校教育法施行規則で、民間企業の事業年度については各社の定款などで定められていて、根拠はそれぞれ異なるよう。

日本に初めて4月始まりの概念が導入されたのは1886(明治19)年に財政法で国の会計年度を定めたタイミングで、それ以後4月始まりの制度が増えていったそう。

つまり、それ以前の日本には「4月=出会いと別れの季節」という感覚もなかったと考えられる。

 

そう考えると、桜そのものの素晴らしさと筆者の表現力はさることながら、後に日本に4月始まりの制度が導入されたことも、この歌が現代人に共感されている大きな要因なのかもしれない。

在原業平もさすがにそこまでは考えていなかっただろうから、そう考えると少しおもしろい。

 

どこかそわそわするような、それでいて開放感も覚えるようなこの季節。

「誇り」と言ったら大げさかもしれないけれど、桜を見て日本人でよかった!と感じるこの感覚を、私は大切にしたい。

 

昨年撮影したお気に入りの写真